中村京太郎年譜のページです。




日本盲人の父とよばれた中村京太郎は、1880年に静岡県浜名郡和地村で生まれました。
1922年に発刊された日本の週刊点字新聞『点字毎日』の初代編集長で、議会議員選挙の点字投票の権利を取得、全国盲学生体育大会の開催、盲学生雄弁大会の開催、視覚障害者を対象にした懸賞文の募集、点字教科書の発行など、数々の事業を始め、盲人の地位と文化の向上に大きく寄与しました

1880年(明治13/3/25)  浜松市和地970の1に生まれる

1886年(明治19)  浜名郡和地村尋常小学校入学。1週間で退学。
             復明館入院。熊谷眼科医院入院。失明

1893年(明治26)  浜松市大杉孝平治療院にアンマ修業のため弟子入り

1894年(明治27)  東京盲唖学校盲部尋常科入学

1898年(明治31/3  同校盲部尋常科卒業

1899年(明治32/4)  同校鍼按科温習科入学

1900年(明治33/3)  同校鍼按科卒業
同 年(明治33/3  同校教員任名

1901年(明治34/4  正則英語学校夜間部入学

1903年(明治36/3  同校卒業

1904年(明治37/4  東京盲唖学校教員依願退職
同 年(明治37/5)  台南慈恵院盲部教育部長拝命

1911年(明治44/5)  同院盲部教育部長依願退職
同 年(明治44)  帰国、郷里にて理療業開業

1912年(明治45/5)  文部省から海外盲教育並びに盲人福祉事業視察の委託を
           受けて出発
同 年(明治45/9)  英国盲人高等師範学校師範科入学
同 年(明治45/12  父小三郎死去

1914年(大正3)  英国盲人高等師範学校師範科卒業 駐英日本大使館の推薦に
          よりロンドンで開催された第4回国際盲人会議 に
          日本代表として出席
          フランス、ドイツ、ロシア三ヵ国の盲人教育並びに盲人
          福祉事業を視察して帰路につく
同 年(大正3/6)  母のぶ死去
同 年(大正3/9)  平壌で開かれた東洋盲唖教育会議に出席帰国後朝鮮、
           台湾、国内各地を旅行

1915年(大正4/9)  東京同愛訓盲院教員拝命 単鴨庚申塚に居を構える
同 年(大正4/12)  点字雑誌「信光」発行

1916年(大正5)  小石川区竹早町に盲女子寮設立、理事長となる

1917年(大正6  点字雑誌「盲女子の友」創刊(大正11年信仰と合併)

1919年(大正8)  同愛訓盲院教員依願退職 盲人キリスト信仰会組織
          点字週間雑誌「あけぼの」創刊

1921年(大正10)  帝国盲教育会評議員に推薦される
同 年(大正10/11/18) 阿野アツと結婚、杉並阿佐ヶ谷に転居

1922年(大正11/2)  点字図書館創設申請
同 年(大正11/3)  盲女子寮理事長辞任 週間点字新聞「あけぼの」廃刊
            大阪毎日新聞社編集局員として採用され「点字大阪
           毎日」編集主任を命ぜられる
同 年(大正11/5)  長女エミ出生
同 年(大正11/12)  父小三郎死亡iこより家督相続

1925年(大正14/3)  芦屋市に盲女子保護協会設立

1927年(昭和2/10)  全国盲学生体育連盟常任理事を委嘱される

1928年(昭和3/2)  アツ夫人死去

1929年(昭和4/12)  文部省から盲学校用教科書編纂委員を委嘱される

1930年(昭和5/9)西宮市に盲女子ホーム設立

1931年(昭和6)  文部省からニューヨークで開催された世界盲人事業会議
          に日本委員として推薦され出席、6月帰国
          帝国盲教育会より賞状を受ける

1932年(昭和7/2)  阿野愛と結婚

1935年(昭和10/3)  大阪毎日新聞社を定年退職
           「点字毎日」台集主任事務を嘱託

1936年(昭和11/4)  家屋類焼

1938年(昭和13/9)  盲女子保護協会盲婦人ホーム開始届提出

1939年(昭和14)  中国盲人教育盲人福祉事業開始のため渡航準備をなす…
          T・K氏代わって渡支、盲女子2人も送る

1940年(昭和15/7)  帝国盲教育より表彰状をうける
同 年(昭和15/11)  中央盲人福祉協会より表彰状をうける

1941年(昭和16/2  点字大阪毎日1千号記念感謝会より感謝状をうける

1942年(昭和17/9)  毎日新聞社特別取扱社員となる

1943年(昭和18/8)  戦禍のため盲女ホーム閉鎖

1944年(昭和19)  点字編集毎日顧問となる。西宮市を引き上げ浜松市盲人
          会館におちつく。三河地震で羅災したため浜松市平松町
          石津玉蔵宅にうつる

1945年(昭和20/8)  毎日新聞社社友となる(終戦)

1946年(昭和21/12)  東京都文京区高田老松町に転居
            盲女子保護協会を盲女子厚生相談所と改め事業開始

1947年(昭和22)  文部省より職業教育指導委員を委嘱される
          東京盲人会館理事就任 この頃から中途失明者厚生指導
          にあたる
          中央盲人福祉協会理事就任
          文部省より盲ろう教育義務制実施準備委員を委嘱される
          私立横浜訓盲院教師委嘱(夫人とともに)

1948年(昭和23/4)  日本教職員組合特殊学校部より表彰状をうける
           ヘレンケラーキャンペーン委員会より表彰状をうける

1949年(昭和24/4)  東京同愛盲学校(後ヘレンケラー学院)より教員と
           して委嘱

1950年(昭和25/3)  私立横浜訓盲院教師依願退職(夫人とともに)
           ユネスコ本部で開催された世界点字統一会議に日本代
           表として招かれ出席。帰途英仏その他における身体障
           害者の教育並びに福祉事業を視察
           厚生大臣から身体障害者援護功労者として表彰される
           東京都盲人協会より表彰状をうける

1953年(昭和28)  東京都社会福祉協議会より賞状をうける 社会福祉法人
          東京ヘレンケラー協会評議員並びにヘレンケラー学院教
          師を委嘱される
          長女エミ大塚四郎と婚姻

1954年(昭和29)  このころより日本女子大学通信教育テキスト等を
          点訳して盲女子に贈る

1955年(昭和30)  青鳥会からヘレンケラー賞をうける
          東京で開かれたアジア盲人福祉会議に日本正式オブザバー
          として出席

1956年(昭和31)  喜寿祝賀会より祝福の意を表される
          台湾福利推進会より場会長、陳幹事長来訪の上、感謝記
          念として金の十字架を贈呈される

1958年(昭和33)  東京都より喜寿祝いを贈られる
          盲ろう教育義務制10周年記念会より感謝状を贈られる

1959年(昭和34)  日本盲人キリスト教伝道協議会より感謝状を贈られる

1960年(昭和35)  日本盲人福祉委員会より評議員を委嘱される
同 年(昭和35/5/4)  愛夫人死去

1961年(昭和36)  韓国大邱盲唖学校長大邱光明学校長より感謝状を
          贈られる

1962年(昭和37/3)  このころより健康を害し38年春頃より病床に臥す

1963年(昭和38)  日本盲人会連合から岩橋賞を贈られる
          日本ライトハウスから日本ライトハウス賞を贈られる

1964年(昭和39/12/24)  従五位勲四等瑞宝章を贈られる 逝去(87歳)


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